矢野の歴史

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矢野の歴史

相生市の形

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相生市は南北に細長い形をしています。

なぜこのような形をしているのでしょうか。

実は、1136 年に「矢野荘(やののしょう)」が成立したときの領域が、現在の相生市とほぼ完全に同じなのです。

1136 年は、鳥羽上皇が院政をしていた時代でした。

1156 年、鳥羽上皇の後継者をめぐって保元の乱がおこります。源義朝や平清盛などの武士が政治の中心におどりでます。この戦いから、武士の時代、中世(鎌倉時代・南北朝・室町時代)が始まるのです。

矢野荘は、中世とともに始まり、太閤検地で幕を閉じます。それは、中世の終焉、近世(江戸時代)の始まりでした。

近世、相生市域は、赤穂藩・竜野藩・尼崎藩などに分割して統治されていました。

明治時代になって、赤穂藩・竜野藩は消滅し、相生市域にあった何十という村々は、相生村・那波村・矢野村・若狭野村・那波野村に編成されました。そして、この5 つの村が合併して相生市になります。合併でできた現在の相生市は「中世矢野荘」の姿に戻っていました。

 

相生市の南北に細長い形は不思議な形に見えますが、自然の地形に適合した、人間の生活に都合のよい空間なのでしょう。「歩く」という、何千年も続いた人間の行動様式から考えれば、必然性のある形なのです。

 

相生のルーツはかなり古く「中世矢野荘」にあります。京都の人は「千年の都」といいます。相生市は、京都には及びませんが、11 世紀までの歴史を遡ることができます。「千年の矢野荘」といってもよいくらいです。

中世の歴史がわかる町は、日本中にそれほど多くはありません。では、何故、相生市は中世の歴史がわかるのでしょうか。それは、京都の「東寺」に大量の古文書が残されていたからです。「東寺百合文書」は、現在、京都大学と府立総合資料館が保有しています。

 

このように、「矢野の荘」という名前にもなっている「矢野」は、大変古い歴史を持った地域なのです。

 

矢野の由来

矢野・若狭野から佐方・那波までを含む地域は、古代には「八野郷」と呼ばれていました。

聖徳太子の家臣である秦河勝が相生と赤穂の境の峠、高取峠から射た弓矢が突き刺さった場所だから「矢野」、秦河勝が酒の作り方を教えたので佐方(酒形)と呼ばれるようになったという伝承があります。

年表

古代 1071年 秦為辰が久富保を確保
1136年 久富保が「矢野荘(やのしょう)」として正式に荘園となる
1156年 保元の乱
鎌倉時代 1160年 若狭野・矢野地域を4割を分割(別名)。残り6割を例名とし、那波・佐方は例名に含まれる。
1221年 承久の変 朝廷が幕府に敗北
海老名氏が矢野荘の地頭として赴任
1295年 下地中分が行われる(地頭 海老名氏と領家方雑掌 左右衛門尉行方によって)
1274年 元軍、九州に来襲(文永の役)
1281年 元軍、再び来襲(弘安の役)
1300年 亀山上皇が別名を南禅寺に寄進
1313年 後宇多上皇が矢野荘例名を東寺に寄進
1313年 藤原氏、預所職を解任され矢野荘から撤退。寺田法念、重藤名を確保。
南北時代 1335年 東寺と寺田一族の対立
東寺・農民連合軍の勝利
1348年 阿波与一(藤原清胤)、公文職に任命される
寺田範長、重藤名と公文職に関する文書を東寺に売り渡す
室町時代 1375年 観応の擾乱
祐尊、矢野荘の公文に任命される。
惣荘一揆。祐尊、公文職を罷免される。
海老名氏が浦分を支配
1467年 応仁の乱
安土桃山時代 1588年 矢野荘は宇喜多直家・宇喜多秀家の支配下に入る
1600年 関ヶ原の戦い 宇喜多氏滅亡
江戸時代 1605年 海老名氏。池田輝政からの文書提出命令を拒否。尼崎へ去る
1617年 相生に残留の海老名氏は農民となり、村役人の道を歩む
赤穂藩・龍野藩・尼崎藩・天領・旗本浅野家などによる分割統治
明治時代 1876年 赤穂藩・龍野藩が消滅
山陽鉄道の開通
唐端清太郎が播磨造船所を創設
相生市誕生(相生・那波・矢野・若狭野が統合される)
昭和時代 1970年代 県立相生高等学校の開設および相生市史の編纂