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三濃山シンポジウム&ハイキング~みんなで考えよう、三農山のこれから~

農山シンポジウムチラシ

三濃山は、飛鳥時代の渡来人僧侶恵便・恵聡の隠棲地として始まり、聖徳太子、秦河勝、空海(弘法大師)などそうそうたる歴史上の人物にまつわる伝承が残されています。
そして、かつては三濃千坊といわれるくらい山岳信仰の地として繁栄もしてきました。また、近年(昭和40年代)まで村落(三濃山村)が存在し、実際そこには人々の幸喜・辛苦の暮らしがありました。三濃山は信仰だけでなく生活の場でもあったのです。

しかし、最近では三濃山をハイキングなどで訪れる人も次第に少なくなってきており、歴史的な由緒や村における人々の暮らしなど地元民でさえこのまま忘れ去られてしまおうとしています。

 

三濃山は、地理的にも相生市の最北端に当たり、そこから旧矢野荘すなわち現相生市全域を一望でき、歴史的にも信仰的にもある意味相生市の成り立ち、アイデンティティに重要な意味をもつと考えられます。
したがって、三濃山を相生市のシンボルとして位置付け、相生市のまちづくりにつなげることも可能ではないでしょうか。


そこで、三濃山の歴史的なこと、生活のことなど、もう一度、矢野町の方や相生市の方、そしてそれ以外のより多くの方に知ってもらい、またこれまで陰ながら三濃山を守り支えてこられてきた方々の活動も知ってもらいながら、今後、矢野町(地域)として、また相生市として三濃山をどうしていくのがいいのか、これを三濃山を活かしたまちづくりを考える取っ掛かり(キックオフ)とすることを意図して、企画しました。

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シンポジウムの画像

 

開催日時 2012年3月3日(土)13:30~15:30
開催場所 JA兵庫西矢野支店2F
基調講演 三濃山の魅力
講師

松本恵司先生(兵庫県立須磨友が丘高等学校教諭)
講師プロフィール


1952年相生市旭区本町商店街で生まれる。旭小学校、双葉中学校、龍野高等学校を経て京都大学文学部卒業。
県立高等学校の社会科教諭として龍野高等学校などに勤務。 現在は県立須磨友が丘高等学校教諭。
日本史・世界史・政治経済・倫理・現代社会と広く浅く何でもこなす。
50才をすぎて相生のフィールドワークにめざめ、NPO法人相生いきいきネットの一事業「相生映像アーカイブ」で活動。

三農山の魅力の資料

相生の古い写真や古い絵葉書を見ることが楽しみ。
趣味は古い乾電池のコレクション。


2008年 『ふるさと相生の20世紀写真集』を編集
2011年 『播磨造船所進水記念絵葉書写真集』を編集
2012年 現在『写真集 矢野ふるさと散歩』を編集中


パネルディスカッション:「三濃山、人々の思いとともに」
コーディネーター:松本恵司先生
パネリスト:
浅井えつ氏、高見忠雄氏、藤田正巳氏(三濃山出身者)
前田紀佳氏(三濃山奉仕活動者) 松本幹彦氏(アカガシを守る会代表)
原園龍一氏(相生市文化協会会長)

矢野町再発見セミナー「矢野と秦氏伝承~地域に刻まれた記憶~」

矢野と秦氏伝承の資料です。

矢野町も、日本の他の田舎地域と同じように、若者が矢野を離れ少子高齢化が進み、人口減少社会へと進んでいます。 そのようななかどうすれば矢野町が維持でき持続していけるのかが、最大の課題となっております。
そこで、矢野町は自分たちのことは自分たちでと自律した地域づくりを目指すなかで、今年3月に住民自らの手によって「矢野町ふるさと自立計画」を策定しました。


それは、住民が自分たちの住む地域に誇りをもって地域づくりを進めるためにも、まずは自分たちの地域の歴史や文化、農業など、今ここにあるものの良さを再発見、再認識するところから始めるところが鍵となっています。

ということで、この度、矢野再発見セミナーを開催する運びとなりました。
今回は第1弾歴史編ということですが、今後も歴史編の2や自然編、伝統・文化編など継続していきたいと考えています。それらをまとめると「矢野学」ができあがります。

 

第1弾となる今回は、まずはこの矢野の地と関わりの深い秦氏をとりあげ、それにまつわる伝承を、河合塾とミロスアカデミーの講師をされている山口和翁(やまぐちかずお)先生をお迎えし、 4回シリーズでたどっていきます。

第1回 2013年12月1日(日) 「矢野の開発伝承~矢野荘と泰一族の伝承」
第2回 2014年1月19日(日) 「中世矢野物語~"秦氏の末裔"を名乗る人々」
第3回 2014年2月9日(日) 「矢野川・千種川紀行~千種川水系の生業と信仰」
第4回 2014年3月9日(日) 「秦氏ゆかりの神社群像~大避神社・芸能民・技術民」

 

時間 開場13:00 講演13:30~15:00 質疑応答15:00~16:00
場所 (第1回)羅漢の里研修センター多目的ホール
(第2~4回)矢野公民館
講師 山口和翁(やまぐちかずお)

学校法人河合塾講師。ミロスアカデミー講師。日本中世の研究に携わった後、教鞭を執る。従来の歴史学・歴史教育の持組みを超えて、伝承の中に込められた真実に着目。親から子ヘ、子から孫へと語り継がれる伝承を紐解き”地域に残された記憶”に光を当てる講演を展開している。

第1回「矢野の開発伝承~矢野荘と泰一族の伝承」

シンポジウム詳細

古代以降、赤穂郡に大きな影響を与えた秦氏について、紐解いた。秦氏は『日本書紀』によると応神朝に朝鮮半島が渡来したと伝えられる氏族で、秦氏がもたらした技術により、大規模な開墾が進行し、土器製造、養蚕、金属精錬・加工など技術が大きく変容したと伝えられる。
秦氏自身も、京都市嵐山付近の大堰川の堰を造築し、嵯峨野の開墾が進行するきっかけをつくった伝承、さらに河内に茨田堤を造営し、河内地域の開墾が進行するきっかけを作ったと伝えられる。

 

また、秦氏の拠点の一つとされる京都太秦には、広隆寺という秦氏の氏寺があり、弥勒菩薩像とともに秦河勝木造が現在でも安置されている。
相生市矢野町を含む赤穂郡は、この秦氏の拠点になった場所で、秦氏ゆかりの大避神社は、隣接する佐用郡南部まで含めると千種川流域を中心に30を越える。これは、この地域にのみ見られる特徴である。


また、秦氏の中心的人物と伝えられる秦河勝に関する伝承も、赤穂郡一帯に多数見られる。赤穂郡内各地の大避神社の社伝その他の史料には、河勝は、朝廷に仕えた後、640年代に那波ないしは坂越に来着し、養蚕など諸技術を伝えた、さらに上郡町山野里をはじめ各地に神社を建立して西国の守りとしたという伝承がある。
また、矢野町能下の犬塚(室町後期に作られたと推定される五輪塔)には、狩りに出かけた秦河勝を、連れていた犬が大蛇から救ったという伝説が伝えられている。

 

さらには、河勝の家臣の稲垣氏・山本氏・瓦師大崎氏の定住・開発伝承も見られる。そして、記録上でも、平安初期に秦内麻呂が地方官である郡司を務めていた記録も残っている。
秦以上の伝説、そして、秦氏ゆかりの大避神社の分布は、秦氏の赤穂郡での定住・開発と関連して形作られたことがわかり、後に秦為辰が矢野荘を開発した伝承が生まれるベースが形成された。

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第2回「中世矢野物語~"秦氏の末裔"を名乗る人々」

シンポジウム詳細

平安末期から室町期にかけてのこの地域は矢野荘と呼ばれる皇族、貴族の領地だった。領主は、都の貴族であり、播磨国の国司も歴任した藤原顕季から皇族に継承され、やがて鎌倉末期に京都の東寺に寄進された。
一方、現地管理人としては、主に荘園関係の公文書を扱う公文職が置かれていたが、これを代々受け継いだのが、寺田氏、治安維持、農民からの徴税を担当する地頭が1220年代に置かれ、これを代々の務めたのが、相模(神奈川県西部)出身の海老名氏であった。
寺田氏は、赤穂郡一帯に勢力を張っていたと伝えられる秦氏の子孫と称し、寺田地区を拠点に鎌倉幕府の御家人(家来)として、モンゴル襲来のときなど、軍事動員に従っていた。


矢野荘では、公文を務めるかたわら、若狭野地区土井の大避神社(秦氏ゆかりの神社)の神職を務めていた。矢野以外では、坂越荘(赤穂市)、福井荘(姫路市)、摂津国頭陀寺の一部地頭職を持っていた記録があり、いずれも海上、河川交通の要衝に利権を持った豪族でもあったことがうかがわれる。
鎌倉末期に東寺が矢野荘の領主になり、この寺田氏の公文職を奪ったことから、争いに発展した。寺田氏は再三にわたり、矢野荘に乱入 し、合戦となり、若狭野の大避神社付近を舞台にした戦いが展開したこともあったが、最終的には東寺が農民を組織し、寺田氏を「悪党」として、これを撃退した。
寺田氏に従って矢野荘に攻め入った勢力は、西播磨を中心とした広範囲の武士、僧侶、商人であり、交通の要衝に利権を持っていた寺田氏の大きさがうかがわれる。


寺田氏の所持していた古文書の記述に平安末期の秦為辰による開発伝承がみられる。この古文書に記される開発エリアについては、寺田氏の利害を背景に誇張して、捏造された部分もあるが、秦氏によるこの地域の開発、勢力拡大の言い伝えが確実に存在したからこそ、この捏造も可能であったわけであり、秦氏の影響力の大きさが、ここにもうかがわれる。

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第3回「矢野川・千種川紀行~千種川水系の生業と信仰」

シンポジウム詳細

矢野荘内若狭野地区に「イモチヤ」の地名が存在し、鋳物師が存在していたことが判明する。中世の鋳物師は、廻船に材料、製品を積み、瀬戸内、山陰、近畿を遍歴していたが、鎌倉後期以降次第に定住したといわれる。
「イモチヤ」の地名は、鋳物師の定住した地とも推定出来る。矢野荘内には、雨内、下田に銅山があったと伝えられ、比較的近い位置に秦氏ゆかりの大避神社があり、秦氏が養蚕に加え、金属加工などの諸技術を得意とした伝承も絡み、鉱山、金属業者に信仰された可能性がある。

 

三濃山の東山麓には、秦河勝ゆかりの伝承が残る犬塚と呼ばれる中世の五輪塔があり、付近には「カナホリグチ」の鉱山の存在をほのめかす地名が残る。 山頂付近には求福教寺跡、大避神社、弁天社があり、付近に鉄山跡があり、「三濃千軒」とよばれる鉱山の繁栄を示唆する通称も存在した。


さらにこの地は、三濃山西麓にあり、鉱山の存在した上郡町金出地との結びつきも強く、生業の共通性もうかがわれる。

さらに類似した集落を隣接した上郡町に追ってみると、千種川の支流岩木地区に「鍛治千軒」の地名があり、周囲には室町期の石造物、大避神社がある。付近には銅山があり、鋳物師集団が居住していたと伝えられる。
三濃千軒も類似した状況だったと推定出来る。また、上郡町休治には、鋳物の型取りに適した砂が存在し、鋳物師が活動したと、いわれ、ここにも大避神社が鎮座している。


さらに山野里にも、鋳物師の居住が確認できる。 山野里は旧山陽道と千種川が交差する位置にあり、交通の要 衝にあたる。室町期において、播磨国守護であった赤松氏は、この地を掌握し、佐用荘地頭の地位を基礎にしたのに加え、水運、鉄売買で利益を得て台頭したとも言われる。
そして、隣接する矢野荘もまた、その金属生産のネットワークのなかにあったとも思われる。

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第4回「秦氏ゆかりの神社群像~大避神社・芸能民・技術民」

シンポジウム詳細

雅楽家の東儀家は、秦河勝の末裔という伝承を持ち、1997年、秦河勝没と伝えられる647年の1350年を記念して、赤穂市坂越の大避神社で舞を奉納した。
また、能楽を大成したと伝えられる、室町期の世阿弥も、秦河勝を能楽の祖として、秦氏の末裔であると称している。
大避神社は、金属業関係者、水運業者、建築関係者の信仰を得ているが、これは、大避神社に関係する秦氏が、技術をリードした氏族であることによるが、さらには能楽、雅楽の祖である伝承を持つことから、芸能関係者の信仰を集めている。


もともと、秦氏を中心とした勢力は、諸技術や芸能を総合的に司っている秦氏の系譜を引く伝承を持ち、江戸幕府の金山奉行に任じられた大久保長安は、代々能楽をやっていた家系であるが、金属製練にも長け、水運ルートにも詳しく、その開拓も行った。秦氏系氏族は、交通、技術、芸能を総合的に得意とした氏族なのである。


さて、これらの芸能、交通、技術関係者、そして、西播磨地域には、やがて、中世末期から、浄土真宗が広まって一大勢力を形成する。
矢野地域にも大きくその影響が及んだ。浄土真宗は、鎌倉期に親鸞が開いたと言われ、やがて、室町期に蓮如が出て、その勢力を飛躍的に拡大させた。
そして、15世紀末に現在の大阪に石山御坊が建立され、西国に勢力を拡大する拠点となり、西播磨においては、蓮如を継いだ実如の時代に、その子の実円が下向し、姫路市に英賀御坊が完成し、播磨での布教の拠点となった。
矢野地域の浄土真宗寺院にも、蓮如や実如の教えを受け、開いた、他州から転向したという伝承を持つ寺院が散見される。
そして、勢力を拡大した浄土真宗の勢力は、後に織田信長、豊臣秀吉、黒田官兵衛らと対決することになる。

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