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矢野町再発見セミナー第2弾歴史編

平成25年度に引き続き、平成26年度も矢野再発見セミナーをシリーズで開催しました。
25年度は歴史編ということで、矢野地域と秦氏の関係から矢野荘の起こり・出来事までをみてきました。26年度はその続きということで時代が下り、軍師官兵衛の頃(中世)と江戸時代の頃の矢野地域あるいは矢野地域との関わり合いを、再び山口和翁先生をお迎えし前後期2期に分けて計4回開催しました。

前期のテーマは「矢野谷の寺院と浄土真宗 ~軍師官兵衛の時代~」。
矢野町には浄土真宗のお寺が東西合わせて5つもあります。他の宗派のお寺はありません。お隣の若狭野町にも真宗のお寺が4つあります。両町では、この9つの真宗寺院を「矢野谷東西法中(ほっちゅう)9か寺」と呼んで、子どものサマースクールなどのイベントが協力して行われています。
なぜ、この地域でこれほどまでに真宗ばかりのお寺が密集してあるのでしょうか?
軍師官兵衛が活躍した中世の矢野地域を浄土真宗の寺院を切り口にみていきます。

前期 第1回 2014年8月17日(日) 「英賀御坊と矢野地域の寺院」
前期 第2回 2014年9月14日(日) 「織田信長、豊臣秀吉の統一事業と矢野地域」

後期、矢野荘の残照

後期は「矢野荘の残照Ⅰ ~赤穂義士の時代~」です。


矢野地域は秀吉の太閤検地後矢野荘は解体され近代に入るまで、領主が頻繁に変わり分割支配されて、矢野住民の表だった活躍がありません。そういう意味で、江戸時代の矢野地域を扱う後期セミナーのタイトルを「矢野荘の残照」としました。
江戸時代休眠中の矢野荘(=相生市)は近代に入り造船で息を吹き返します。
そうは言っても、矢野地域の神社には赤穂義士四十七士の絵馬が数多く掲げてあり、浅野家の菩提寺である花岳寺の別院が小河の観音にあり、矢野地域と赤穂藩主とのつながりを感じます。
そこで、後期セミナーは日本で最も演じられる戯曲「忠臣蔵」を色に添えてその頃の赤穂藩・矢野地域をみていきます。

後期 第1回 2015年1月18日(日) 「大名・旗本支配と矢野地域」
後期 第2回 2015年2月15日(日) 「矢野地域と元禄の群像」

開催時間、場所、講師は前期、後期とも共通です。

時間 開場13:00 講演13:30~15:00
場所 矢野公民館
講師 山口和翁(やまぐちかずお)

学校法人河合塾講師。ミロスアカデミー講師。日本中世の研究に携わった後、教鞭を執る。従来の歴史学・歴史教育の持組みを超えて、伝承の中に込められた真実に着目。親から子ヘ、子から孫へと語り継がれる伝承を紐解き”地域に残された記憶”に光を当てる講演を展開している。

前期 第1回「英賀御坊と矢野地域の寺院」

  浄土真宗寺院の英賀本徳寺は15世紀末に蓮如の側近空善が道場を設けたのを源とし、16世紀に入り、本願寺法主の子実円を迎え、英賀御堂が設けられた。当時の英賀は『英城日記』にみえる三木氏が英賀城を拠点に支配したと言われてきたが、実は長衆など富裕な海運業者の集団による自治が行われていたと見られる。

  一方、西播磨全域での浄土真宗の広まりを見ると、英賀地域や街道沿いに寺院が拡大し、信者も増加していった。この宗派の布教方法は、当時畿内及びその周辺に拡大していた惣村と呼ばれる自治的な村落を基盤としていた。惣村を母胎に講と呼ばれる信者組織の結成、惣の寄合における御文(教えを書いた文章)の読み合いが奨励された。矢野荘においても、惣村が存在し、これをベースに浄土真宗が広まったと思われる。

  矢野地域の法林寺、西教寺、光専寺、明専寺、称念寺、善行寺、教証寺、教順寺などのうち開創の時期が明確なものは、いずれも15世紀末~16世紀初期に開かれている。また、西播磨全域でも同時期に浄土真宗寺院の開創が集中しており、英賀を拠点とし、惣村の組織を利用した集中的な布教が行われていたと考えられる。

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前期第1回の様子

前期 第2回「織田信長、豊臣秀吉の統一事業と矢野地域」

  浄土真宗の勢力が西播磨に勢力を浸透させていた頃、軍師官兵衛の父祖が勢力を少しずつ蓄えていた。黒田氏発祥の地は、播磨国黒田荘(現西脇市)あるいは、近江国黒田荘(現長浜市)ともいわれ、やがて、官兵衛の祖父黒田重隆は備前国福岡に流れ、「玲珠膏」という目薬を商っていたも伝えられ、やがて彼は播磨に移転し、御着城主の小寺家に仕えた。そして、その子、職隆のときに家老、姫路城代となった。

  官兵衛は、織田信長の台頭、中国地方の毛利氏の侵攻のなかで、どちらに味方するかで揺れる播磨の諸勢力のなかで、いち早く信長の実力を見抜き、赤松、小寺、別所氏を信長に帰属させることに成功した。しかし、信長に対抗する勢力として、毛利水軍の支援を受けた、浄土真宗の石山本願寺があり、毛利氏の影響もあり、その帰属は不安定さを残していた。

  その後、別所長治が周辺の武士団を巻き込んで反旗を翻し、さらには摂津の荒木村重も反抗した。こうしたなかで信長への帰順を促そうとした官兵衛は土牢に幽閉された。しかし、村重の裏切りは、周辺の武士を巻き込んだものでなかったため、大きな影響力は無く、備前・播磨西部を勢力下に置いていた宇喜多直家が信長に味方したことにより、状況が一変し、村重の有岡城も落城し、やがて別所長治の三木城も落城した。

  その後、石山本願寺も信長と和睦し、英賀衆も西播磨の門徒を動員して最後まで抵抗したが鎮圧され、英賀本徳寺・英賀衆も姫路への移転を余儀無くされた。

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前期第2回の様子

後期 第1回「大名・旗本支配と矢野地域」

  豊臣政権の下で播磨は、西国方面の押さえとして重視され、赤穂郡以外の地は直轄地、側近の大名の領地としてかためられた。一方、赤穂郡・佐用郡は、岡山城主の宇喜多氏の支配下に入り、那波四ヶ村は宇喜多忠家の所領に、家老の一人の岡氏が上矢野・下矢野を支配したと言われる。

  関ヶ原の合戦で宇喜多氏が没落して後は、池田輝政が姫路藩52万石を拝領し、赤穂郡も、その中に入ったが、この地は代官の垂水半左衛門が預かり、赤穂に上水道を建設したり、三濃山求福教寺に畑を寄進するなどした。また、一時期、若狭野村は、下間重次が代官として支配した。

  初代輝政の子の代に兄弟で播磨を分割して行き、最初池田忠継が、宍粟郡・佐用郡・赤穂郡を相続し、彼の死後、弟の政綱が赤穂郡を継ぎ、さらに政綱の死後は、さらに弟の輝興が赤穂郡を継いだものの乱心のため改易され、池田一族の赤穂郡支配は終わりを告げた。

  この後、1645年以降、赤穂に入部したのが、浅野家であった。浅野一族の発祥の地は、美濃焼の産地多治見にほど近い美濃国土岐郡浅野村であるとも伝えられるが、この一族が秀吉の妻於寧を養育したことから、浅野長政以降豊臣政権で重要された。彼は和歌山藩37万石を拝領し、和歌山を子の幸長に譲って隠居した後は、隠居料所として常陸国真壁5万石を与えられた。この地を子の長重が相続し、笠間藩を立て、それを継いだ長直が池田輝興の改易の後、赤穂に領地替えとなり、ここに1645年浅野家赤穂藩が成立した。

  浅野家赤穂藩初代の浅野長直は、赤穂城を築き、塩田経営を本格化し、浅野家菩提寺の花岳寺を建立し、火消し大名としても有名であった。そして、孫の長矩が1701年、勅使饗応役を勤めたときに、吉良上野介に対する刃傷事件が起こった。

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後期第1回の様子

後期 第2回「矢野地域と元禄の群像」

  1701年の勅使饗応が行われるなかで、江戸城松の廊下で浅野長矩が、吉良義央に対する刃傷事件を起こした。吉良家は、室町幕府将軍となる足利一族の血筋を引く高家の筆頭で、中世以来、付近には塩田もある三河国吉良荘を拠点とし、吉良吉央自身も、黄金堤を造営したという言い伝えがあり、富好新田を造成したと伝えられる。

  この刃傷事件で、浅野長矩は即刻切腹に、赤穂藩は改易となった。改易が決まった後、家老の大石内蔵助を中心に藩札の現金引き換え、藩士に対する割符金の支給など事後処理が迅速に行われ、翌月には赤穂開城が行われた。家老の大石家は、元々は近江国大石荘(現大津市南部大石)を拠点とする豪族で、瀬田川と信楽川の合流点佐久奈渡神社付近を勢力下に置く豪族で、内蔵助の曽祖父の代から浅野家に仕えていた。

  浅野長矩が切腹処分であったのに対し、吉良吉央に対しては処罰が無かったことに対して、堀部安兵衛ら旧赤穂藩士急進派の 不満が高まり、彼らは早期に吉良義央を討ち取ることを主張した。それに対して大石内蔵助らは浅野家再興を意図して、急進派を抑えつつ、長矩の弟浅野大学を立てて浅野家再興を実現するための政治工作を行った。しかし、1702年7月に浅野大学の広島藩お預けが決定し、浅野家再興の望みが絶たれた時点で、京都円山での会合で吉良邸討ち入りが決定した。

  その後、続々と関西在住の旧赤穂藩士が江戸に入り、着々と討ち入りの準備が進められた。そのなかには、吉良邸の町人に化けて、吉良邸の門前に店を構えた前原伊助・神崎与五郎、中間に化けて、吉良邸を偵察した潮田又之丞・毛利小平太の姿もあった。やがて、彼らは吉良邸の絵図面を手に入れ、吉良邸で茶会が催される情報を得て、元禄15年(1702年)12月14日に吉良義央を討ち取り、本懐を遂げた。赤穂義士については、助命嘆願もあったが、翌年2月4日、幕府は赤穂義士を切腹処分とした。

  義士の討ち入りを裏から支えた人々も忘れられない。旧赤穂藩御用医師で、医者の立場で義士を支え、討ち入りのときには息子玄達を現場に派遣した寺井玄渓、旧赤穂藩御用商人で義士を経済面から支え、内蔵助の母の面倒も見た綿屋善右衛門、内蔵助の一族で、討ち入りのときには見張り役をつとめた弘前大石家の大石無人・三平、そして、吉良邸の茶会情報を伝えた一人である羽倉斎(のちの荷田春満)である。

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特別企画現地バスツアー遺跡ハイキング

  平成25度、シリーズで開催した矢野再発見!セミナー「矢野と秦氏伝承~地域に刻まれた記憶~」では、中世の矢野荘を中心にこの地域と秦氏との関わりをみてきました。西播磨には秦河勝を祀る大避神社が多数存在します。そこで、実際に現地に足を運び、その道中含め講師 山口和翁先生のお話を聴き、より理解を深めていただこうと、セミナーを受講して下さった方々を対象に現地バスツアーを企画しました。

  お楽しみの昼食は、瀬戸内海に面した赤穂の大避神社に近いお食事処で味わっていただきます。漁港に水揚げされたばかりの新鮮で美味しい海の幸をご堪能下さい。

日にち 2014年9月28日(日) (雨天決行)
集合場所 ①矢野公民館(9:30)    ②相生駅北バスロータリー(10:00)
行  程 矢野公民館(9:30)==相生駅(10:00)==赤穂坂越 大避神社・昼食(10:30~13:45)==有年まわり==若狭野 大避神社(14:15~15:00)==相生駅(15:30)==矢野公民館(16:00)

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バスツアーの様子

特別企画現地バスツアー遺跡ハイキング

  国指定史跡 感状山城は、相生市矢野町瓜生と森にまたがる標高301mの感状山の尾根上に築かれていました。規模が雄大で眺望がよく、人の手による破壊などもなく、石垣や礎石、建物跡などの遺構が比較的よく残っています。播磨地方の代表的な中世山城の遺構といえます。

  建武年間(1334~36)、足利尊氏を追討していた新田義貞の軍勢を赤松円心の三男則祐が奮戦し、50余日に渡り足止めをしました。その結果、尊氏に反撃の機会を与えることになり、この功績によって尊氏が赤松則祐に感状を与えたことから感状山と呼ばれるようになりました。

日にち 2015年3月8日(日) (雨天中止)
集合時間・場所 13:00    矢野公民館(瓜生公民館に移動)
出発時間・場所 13:30   瓜生公民館

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You Tube動画(参加者ご提供)

ハイキングの様子